新宿 旧青梅街道
2015年 01月 13日
私はもう退職してから30年以上経ちますが、この通りに私たち夫婦がお勤めしていた会社がありました。
そんな訳でこの辺りは地元のような気がします。
行くたびにお店が入れ替わっていたり変化が著しいですね。
新宿東口から西口に行く時は時々アルタの前を通り、ガード下をくぐって行く時があります。
いつで来たのか、今まで気が付かなかったけれど「旧青梅街道(西口方面)と言う標識(?)が立っていました。
ガード入口から振り返るとこんな景色。
右側は喫煙コーナーが出来ていてパネルの壁だけなのでたばこの臭いがプンプン。
このこの壁を右側に行くと新宿駅東口です。
左側にはアルタなどがあります。
喫煙コーナーのフェンスに新しくパネルが・・・
読んでみましょう。
「旧青梅街道の歴史」
青梅街道は、そのむかし徳川家康が江戸城普請の際に多摩郡から石灰を運ぶ為に開かれた「成木街道」がその後に「青梅街道」となりました。
「旧青梅街道の変遷」
開通後、青梅街道は八王子の御用石灰の輸送路として発展しますが、1747年頃に江戸で野州石灰の販売が許可されると、良質で高価な八王子石灰の需要が激減し、石灰の道としての機能は少なくなりました。
やがて江戸中期より武蔵野、多摩などの江戸近村と府内を結ぶ最短路として農産物などを流通をはたしていきます。
また青梅街道には数多くの宿場があり、人々の休息の場となっていました。
かつての青梅街道の起点である新宿追分は現在の新宿三丁目交差点付近であり、また「現在の青梅街道」と区別するため、この街道は「旧青梅街道」と呼ばれています。
「旧青梅街道の起点」
この地は青梅街道の起点となる場所にあたります。
この先の新宿追分(新宿三丁目交差点)にて甲州街道と分岐し、再度合流する山梨県甲府市山崎交差点が終点となります。
全長およそ167㎞です。
「新宿駅の変遷」
新宿駅は明治18年(1885年)に「日本鉄道品川セン(現山手線)」の赤羽~品川間が開通し、開業しました。
新宿が現在のような人で賑わう繁華街へと変わっていったのは、大正2年(1923年)におこった関東大震災の影響が大きいです。
大震災を受けた東京市内の人々は、被害の軽微な山の手に居住をもとめるようになり、新宿駅はサラリーマンなどが西郊から市内へ通うターミナル駅としての役割を果たすようになっていきました。
この大震災により新宿は、これまでの物流拠点から商業型のターミナル都市へと変貌していきました。
「新宿駅周辺の変遷」
東京都内を網の目のように結び、乗り降りも楽な都電は明治以来庶民の足として親しまれてきました。
新宿駅からは11系統(月島八丁目行)、12系統(両国駅前行)、13系統(水天宮行)が走っていました。
また14系統(荻窪行)は新宿駅前から新宿大ガードを超えて青梅街道を端っていた路線です。
しかしより高速で大量輸送に適した地下鉄に都市交通の主役の座を明け渡した都電は、昭和45年(1970年)3月荒川線を残し新宿から姿を消します。
まだまだ、変遷を遂げる新宿ですね。
やっぱり旅が好き♪
今日もありがとうございます。
パネルが設置されたのは最近でしょうが
とてもいい取組ですよね
こういうセンス
他の自治体も真似して欲しいかもです
私の頭の中にある大阪駅前の映像
だれかに伝えたいぐらいですわ
案外、周りを見ないで歩いているものなんですね。
新宿東口ステーションスクエアの「馬水槽」に気が付いたのも
ほんの半年前くらいの事です。
あんなに歴史のある指定文化財だったなんて驚きでした。
あまり目立たないので通り過ぎて行く人が多いけれど、
でも確かに興味のある人にとっては面白いです。
書物だけでは無くこのような配信の仕方はいいですね。
押しつけがましさが無くて好感が持てます。
大阪もかなりの変貌でしょう?
西口の大ガードでは無いですよ。
邪魔にならない感じなので目立たないのでしょう(笑)
新宿は人もビルも看板も氾濫していますものね。
「馬水槽」は私も気が付きませんでしたよ。
何回もそばを通っているし、ここで何か催しがあって立ち止まっても気が付かなかったし・・・(汗)
ここって常に人がいて、見えない?